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初めて会った時の事はよく覚えている。あれは宮廷内で行われたチェス・トーナメントでの事だった。
トーナメントはといっても、広く一般からチェスの強者を募ったものではない。将来、統治する側となる皇位継承権保有者や有力貴族の子弟のみで行われる恒例の催しだ。チェスを通して隔てのない友好を築くというのが名目だが、実際は取り巻き達がその将来を値踏みし、派閥間の腹を探り合う政治の場である。ここでは本当の顔を晒す者など誰もいない。皆が偽りの笑顔を浮かべ、他人の足を引っ張りながら、虚飾に彩られた狭い水槽の中で必死にもがいている・・・醜く、空虚で澱んだ世界――――しかし、私はもう随分とその水に慣れてしまっていた。
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よ ど み に 浮 か ぶ
( 前 編 )
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「・・・チェックメイト」
目に掛かる前髪をかき上げながら、白のキングを摘んでチェスボードの中央に立てる。
何度目かの台詞をぞんざいに呟くと、計ったように周囲から歓声が上がり、大きな拍手が響いた。
軽く息をついて正面を見ると、対戦相手の少年が上目遣いでこちらを窺っている。見たところ、歳は自分と近いようだが定かではない。何か言いたげなその態度が気になって、私は何の気なしに「言いたいことでもあるのか」と問い掛けた。
途端、小心そうな少年は面白い程に顔色を変え、文字通り椅子から跳び上がった。テーブルに膝が当たって、盤上に残っていた駒がばらばらと倒れる。私が呆れたように彼を見遣ると、哀れな貴族の少年は壊れたおもちゃのサルのごとく、猛烈な勢いで手を叩き始めた。
「いやいや、さすがはクロヴィス殿下!見事な勝負でございました!」
周囲で見物していたギャラリーの中からむやみに大きな声が響き、中年太りの男が間に割り込んできた。打ち合わせる手を止めて、少年が弱々しい声でパパ、と呟く。男は前に進み出てると、駒が倒れているチェスボードを舐めるように見回し、満面の笑みを浮かべた。
「ふむ、我が息子もチェスは一番の得意としておりましたが・・・いやはや、なかなか殿下のようにはいきませんな。やはりクロヴィス様は天賦の才をお持ちでいらっしゃる」
そう言いながら、男は顔に張り付けた笑顔を一層歪める。父親の影に隠れた少年は落ち着かないように目線を動かし、私と再び目が合うと、親子でそっくりの愛想笑いを浮かべた。醜い、と私は心中で吐き捨てる。そんな言葉を口にする価値すらないと思える。男の称賛は続いていたが、それ以上聞く気にもなれず、私は適当に頷くと無言で席を立った。すかさず脇で控えていたトーナメント主催者が進み出て、こちらの顔色を窺う。
「殿下、決勝戦の準備は既に出来ておりますが、いかがしましょう」
「少し休んでからにする・・・構わないだろう、どうせ」
言外に含みを持たせると、主催者が深々と頭を下げた。男はまだ実のない賛辞を大声でわめき散らしている。ボーイの運んできたシャンパンを手に取り、私はテーブルを後にした。ゆっくりと足を進めれば、人々が左右に分かれて道を空ける。
「これはクロヴィス様、本日も麗しゅう・・・」
「次は決勝ですな、殿下」
「クロヴィス殿下ならば優勝は間違いないでしょう」
肯定の代わりに杯を軽く掲げてみせると、周囲から歓声が上がった。冷めた笑いを口元に浮かべて、私は用意させた自分専用のソファに腰掛ける。周りを取り囲む貴族たちは私のチェスの腕や衣服のセンスを声高に褒め続け、その狭間からきらびやかなドレスを纏った女たちが意味ありげな目線を投げ掛けてきた。鬱陶しさに手を振って人払いをすると、私は疲れたようにじっと瞼を閉ざした。
――――そう、私がこのチェス・トーナメントで優勝するというのは、ただのリップサービスではない。かといって不正が行われているわけでもなく、その理由はただ一つ、『皇位継承権第3位』という私の身分である。次期皇帝に即位する『可能性』のある人物に粗相があってはいけない・・・こちらがそれを望まなくとも、暗黙の了解のように対戦者は自ら勝負を下りるのだった。
私は深く息をついてグラスをゆっくりと傾ける。心底くだらない出来レースだとわかっていても、今更ここを抜け出す事も出来ない。そして形だけとは言え、第一皇子と第二皇子が欠席の今日、ここで優勝することは自分の勢力を示すいい機会でもあるだろう。次期皇帝の座はまだ十分に私の手の届く範囲であるはずだ。
賑わうトーナメント会場を前に、私はゆっくりと目を開いてグラスをシャンデリアの光にかざした。シャンパンを通して会場を見ると、まるで小さな水槽を覗き込んでいるような気持ちにさせられる。グラスの向こうでは、黄金色の水に住まう魚たちが己の保身のために忙しなく泳ぎ回っていた。ふつふつと弾ける泡がまるで沼の底から湧き上がるガスのようにも見える。醜い、と私は小さく声に出して呟いた。小さく波打つ表面が眩い光を反射して、グラスを覗き込む私の目を刺す。そうだ、この私も澱んだ水槽の中で力を求める愚かな生物にすぎないのだ――――
グラスの中身を一息にあおって、私はソファから立ち上がった。ボーイに空のグラスを渡すと、タイミングを見計らったように主催者が現れて深々と頭を垂れる。
「殿下、決勝テーブルで先ほどから弟君様が殿下をお待ちかねでございます」
「弟?・・・ああそうか、」
このチェス・トーナメントにはたくさんの『兄弟』たちが出席しているが、ほとんど面識はない。父の後宮には貴賎含めて100人近くもの女性たちがおり、半分血が繋がっていると言ってもほとんど他人のようなものだ。どうせ自分のように、皇位継承権の高い者が勝ち進んでいるに違いない。
男が案内する先へ向かうと、テーブルに群がっていたギャラリーが二つに割れて、私の席を現した。
そこには幼い子供がたった一人、まるで人形のように腰掛けていた。
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09-03-12/thorn
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To Be Continued...
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