S  e  g  u  e




何気なく壁のデジタル時計に目をやると、その瞬間、ぴったり3の文字が揃った。時刻は午後3時33分。今日はラッキーデーに違いない・・・そう内心で呟いて、セシルは椅子に座ったまま大きく手足を伸ばした。広々としたラボには人影もなく、いつものような慌ただしさはない。スザクは政庁で終日会議、そして珍しい事に、あの『仕事が趣味』と公言している困った上司も一日休暇を取っているのだ。おかげで仕事は普段の倍以上もはかどり、溜まっていた事務手続きもすっかり片付いてしまった。中華連邦との戦争は膠着状態、ランスロットは整備中、捕獲した敵新型機の解析も一通り終わって、あとはキャメロット専用のスーパーコンピュータによる処理を待つだけ・・・ほかに急ぎの仕事も見当たらない。セシルはコーヒーを入れようと、とっておきの高級豆を手に椅子から立ち上がった。

フィルターを敷いてコーヒーメーカーのスイッチを入れると、こぽこぽと小さな音がこぼれる。漂ってくる香りに目を細めて、セシルはふと上司の机を見遣った。無造作に束ねられた解析ログ、何か走り書きされたメモ、剥き出しのCD-ROM・・・十分な広さのある机だが、研究資料が崩れんばかりに積み重ねられている。他人から見れば乱雑であるとしか思えない机だが、そこには彼なりの美学が込められている、らしい。床に落ちている雑誌に気が付いて、セシルは肩をすくめつつ、それを拾い上げた。そこそこの厚みがある雑誌は学会の会報誌で、ちょうど開いたページには高度な学術論文が図解と共に記されている。

『流体サクラダイトのブレイズルミナス適用及びトライボロジーの課題』

タイトルを流し見て、セシルは軽く溜息をついた。内容があまりにも高度すぎて、第一線でナイトメア開発に携わる自分でさえ、一読しただけでは完全には理解できなかったものだ。雑誌の埃を払って机の上に置くと、セシルはナイトメア工学の天才と謳われる著者の名を呟いた。

「・・・ちゃんとデートしてるかしら、ロイドさん」

ロイドは今日、休暇を取って例の『婚約者』と共にクラシックのコンサートに出かけている。『婚約者なんですから、ほったらかしにしないで、たまにはどこかに誘ってあげるべきです!』というスザクの強い意見の賜物であるが、果たしてロイドがあの少女に『婚約者』としてまともに接しているかどうかは怪しいものだ。長年の付き合いであるセシルでさえ、彼の行動には振り回されっぱなしなのだから、あの少女は今頃大変な気苦労を強いられている事だろう。自分のカップに落としたてのコーヒーを注いで、セシルは大きな窓に広がるエリア11の景色をぼんやりと眺めた。

――――ロイド・アスプルンド、30才。ナイトオブセブン、枢木スザクのナイトメア専任整備班『キャメロット』の室長、称号は伯爵。学生の時分からナイトメア工学において『その人あり』と噂され、学会でも一目置かれる存在だが、その人格はよく言えば変わり者、悪く言えば傍若無人で、自分勝手で、わがままで、子供っぽい。研究以外にはまったく興味を示さず、ナイトメアを好き放題できるから軍にいるのだと公言して憚らない・・・そのロイドが、結婚するという。にわかには信じがたい話だ。

今までも見合いの話がなかったわけではないのだが、ロイドは全て『面倒くさい』の一言で片付けていたので、セシルは今回もそうするものだと思っていた。しかし、相手がナイトメアフレームの初期開発を担ったアッシュフォード家であると知ると、ロイドは目を輝かせた。そして、会ったばかりの少女にあっさりプロポーズしたのである。湯気を立てるコーヒーをそのままに、セシルはそっと目を伏せた。自分は、ロイドの結婚にショックを受けているのだろうか。大学からの付き合いで、ずっと隣で彼の背中を見てきたから、誰よりもロイドを理解しているという自負はある。ナイトメアの開発研究者として心から尊敬し、慕っているが・・・一人の男性としてしてはどうだろう。セシルはコーヒーを啜りつつ、自分の心に問い掛けた。ヘラヘラしながら自分の名前を呼ぶロイドがおぼろげに浮かびあがる。

「・・・『好き』、だと思うけど、」

気恥ずかしい言葉に我に返ったセシルは、一息にコーヒーの残りをあおった。苦みに顔を顰めつつ、空になったカップを窓辺に置いて考える。ロイドと一緒に仕事をするのは楽しいし、これからもずっと傍にいたいと思う・・・しかし、これは俗に言う『恋愛』などとは、ちょっと違うような気がする。現に婚約者とデート、と聞いてもまるで腹が立たないからだ。むしろきちんと婚約者として振る舞っているのか、そっちの方がよほど気になっている。
この感情はほとんど家族に対するそれだ、と科学者らしく冷静にセシルは分析した。ロイドと自分は『恋愛』するには距離が近すぎる。『結婚』と聞くと多少の寂しさを感じるが、自分はこの最も居心地のいい関係を変える気にはなれない・・・そこまで考えてセシルは急に馬鹿馬鹿しい気持ちに襲われた。例えこちらがその気になったとしても、あのナイトメア馬鹿に色恋沙汰が通じるはずもない。
カップにコーヒーをつぎ足して、セシルは窓に背を向けて息をついた。アッシュフォード家との婚姻が成立すれば、基礎研究に役立つ貴重な資材が手に入る。今は彼と彼の研究のために、今日のデートが成功する事を祈ることにしよう。再び自席に戻って腰掛けると、ラボのドアがスライドして、間延びした声が室内に響いた・・・噂の当人のご帰還だ。

「た〜だいまあ〜」
「おかえりなさい、ずいぶん早かったんですね?」
「うん、そうだねえ」

思わず椅子から立ち上がったセシルに、ロイドはいつもの調子で答えると、応接用のソファにだらしなく腰掛けた。

「いい匂いだなあ・・・セシルくん、僕にもコーヒーおねが〜い!」
「はいはい、」

リクエストが来る前に用意していたセシルは、テーブルの上にカップを置いてロイドの傍らに立った。一通り香りを楽しむと、ブラックのコーヒーを一口含んでラボの主がニッコリと微笑む。

「ああ生き返った!クラシックのコンサートだなんてさぁ、あんまり久々でくたびれちゃったよ〜」
「・・・科学技術研究所に誘うよりマシです」
「えーっ、そっちの方が断然面白いじゃない。ナイトメアの最新技術だよ?」
「女子高生にはちっとも面白くありません!」
「ええ〜!?そうかなあ・・・」

いかにも退屈だったと言わんばかりの態度に嫌な予感を覚えつつ、セシルは笑顔で今日の成果を問い掛けた。

「ところでロイドさん・・・今日はちゃんとミレイさんの事、『婚約者』としてエスコートしてあげたんでしょうね!?」
「うん、まーねー」
「・・・本当に?」

まるで気のない返事に、セシルが両手を腰にあてて、ロイドの顔を軽く睨む。

「この間のマニュアル通り、『まともな』デートをしてきたんでしょうね?ナイトメアの話ばっかりしないで、ミレイさんの話は聞いてあげましたか?今度の誕生日のために、彼女の好みも聞き出したんでしょうね?ロイドさんじゃあるまいし、ナイトメア工学の教本なんてプレゼントしても、女の子は誰も喜びませんよ!?そうそう、帰りはちゃんとお家まで送って差し上げたんですよね?まさか現地集合現地解散、なんて事ありえませんもの!それから・・・」
「・・・あのう・・・そんないっぺんに聞かれても困るんですけど」

一息に疑問を吐き出すと、ロイドが上目遣いでぼそぼそと答える。セシルは鼻白んで、大きく息を吐き出した。

「・・・心配して差し上げてるんですよ、部下として」
「あは〜!よくできた部下を持ってぼくは幸せだなあ、でも心配はいらないよ〜」

自信ありげに胸を反らした上司を見て、セシルは安心したように頷く。先日、スザクと一緒に買ってきて押し付けた『エリア11完全デートマニュアル』が少しは役に立ったらしい。

「そうですか、よかったわ!ではちゃんとデートを、」
「婚約、解消しちゃったもんね〜!」

――――たっぷり30秒の間があった。ヘラヘラと笑う上司の前で、セシルが凍りついた口をどうにか動かす。

「・・・ロイドさん、今なんて・・・」
「だからぁ、婚約解消したって言ったでしょ〜」
「なっ、どういうことですか、それって!?」
「だからあ、断られたの。ミレイくんに」

・・・今度はきっかり1分の間が空いた。殺気を感じて逃げようとするロイドの襟首を、セシルの手が容赦なく捕らえる。

「やっぱりデートは大失敗だったんじゃないですか!信じられない・・・もうっ、あなた一体彼女に何をしたんですかロイドさんっ・・・!」
「ぐぐぐぐるじいよ、ぜじるくん〜!僕はなにもしてないって〜!」

襟元を掴んで力任せに揺さぶるセシルに、ロイドが手をばたつかせて苦しげに言い募る。

「嘘おっしゃい!何もしないで断られるわけないでしょう!?」
「だから〜、理由は僕じゃないんだってば!」
「・・・え?」

突然手を放された反動でロイドが盛大にひっくり返った。まったく乱暴なんだから、というぼやきを無視して、セシルはソファにしがみつく上司を見下ろす。

「・・・一体どういう事なんです?」
「まあ一言で言えば、『自分のやりたい事』を探したい・・・ってとこかなあ」

肩で息を整えながら、ロイドがずり落ちた眼鏡を押し上げた。

「家のせいにして、自分から逃げたくないってさ、彼女。僕の事、キライじゃないけど、今のまま流されて結婚するなら、この先一生変われないからって、何度も頭下げて謝られたよ」
「そう、ですか・・・でもご両親がお許しにならないのでは・・・」
「家も出ようと思ってるみたいだよ。どこまでやれるかわからないけど、自分の力で生きていくって」

セシルに向かって楽しげに笑うと、ロイドはソファに背を預けて再びカップに口を付けた。

「偉いよねぇ・・・家を捨てて自分の意志を貫くなんて。僕はあれぐらいのときに、そんな勇気なんてなかったよ」
「ロイドさんは『自分のやりたい事』を好き放題やってるじゃないですか、ずっと」
「・・・そうだねえ・・・そうだったね・・・」

曖昧に相槌を打つと、ロイドは窓の外を眺めて口元に淡い笑みを浮かべた。静かに遠くを見つめる横顔に、セシルは居心地の悪さを感じて無理矢理話題を繋ぐ。

「・・・あの、じゃあアッシュフォード家はどうなるんでしょう?財政面があまり芳しくないと聞きましたけれど」
「ん〜、婚約は解消しちゃったけど、あそこには色々と貴重な資料もあるしねぇ。研究に利用させてもらう代わりに、それなりの対価は払うつもりだよ〜、もちろんシュナイゼル殿下の払いで」

窓から目線を戻すと、くだけた調子でロイドが言った。いつもと変わらない笑顔を見て、セシルは内心で安堵する。しかし、なぜ自分がそんな風に思うのか、今はあまり考えたくなかった。とにかく、あの少女が自分で自分の未来を選択したというのは素直に喜ばしい事ではある。殿下うんぬんという言葉については、あえて無視する事にしよう。
そんなセシルに気付いた様子もなく、ロイドはソファに背を預けると、宙を仰いでわざとらしく溜息をついた。

「ハア、ざんね〜ん!ボク結婚しそこねちゃったなあ・・・年下の若いお嫁さんをもらって、殿下に自慢しようと思ったのにさあ」
「・・・またそんなこと言って。そもそも研究資材目当てだったんでしょう?」
「もちろんそれもあるけどさ・・・わりと好みだったんだけどねぇ、」

締まった首元のタイを片手で緩めながら、ロイドが薄く目を細める。

「いい女になるよ、彼女は」

普段はふざけてばかりの上司が真面目な顔でそんなことを言うものだから、セシルはどんな顔をしていいのかわからなくなってしまった。



08-08-17/thorn