学校に通っていた頃は宿題というものが大嫌いだった。
そもそも勉強自体が好きではなかったし、何より『やらされている』という感覚がたまらなく嫌だったのだと思う。
宿題なんて面倒臭い、やりたくない、勉強なんて大嫌いだ、
そういって駄々をこねる自分に、遠い親戚にあたるその老人は静かに言った。
『おまえもいずれ、枢木の家を背負って人々の上に立つようになる・・・そのためにはちゃんと勉強して、学を身につけんといかん』
勉強なんて別にいらないよ、と生意気盛りだった自分はその言葉に噛み付いた。
『俺はこの辺で一番強いから、みんな俺の言う事を聞くよ。だから勉強も宿題もする必要ないんだ』
そう言って自慢げに胸を張ると、老人は萎びた手で自分の頭を撫でた。
『そうか、それはすごいな。だが、力だけでは本当に人を動かす事はできんぞ』
『なにそれ、じいちゃん、どういうこと』
『それはちゃんと勉強すればわかる事だ。さあ、早う宿題を済ませてしまいなさい』
不満そうに口を尖らせる自分を覗き込んで、老人は顔に刻まれた皺を深めて呵々と笑う。
『宿題はな、やらされると思うから面白くない。自分でやると思えば楽なものよ』
『じゃあ、じいちゃんずっとここにいてよ。一人で宿題するなんて、つまらないもん』
子供の我が儘に老人はどこか遠くを見るように目を細めると、こっくりと頷いた。
『よしよし、儂がちゃんとお前の事を見ていてやるからな、スザク』


――――日の差しこむ縁側で過ごした平和な日々は、今も昨日のことのように思い出す事ができる。 手にした紙を握り締めると、スザクは濃紺のマントを翻して拘置所へと足を向けた。







老  人  と  檻







厳重な警備のチェックと幾重の扉を抜けた先、拘置所の最奥にその隔離独房がある。牢の直前で、スザクはふいに立ち止まって息をついた。軽く頭を振ると、再び背筋を正し、ゆっくりとした足取りで牢の正面に立つ。そして座禅を組む人物へ、鉄格子越しに声を掛けた。
「・・・お久しぶりです、桐原公」
「ほう、これはこれは」
響いた声に、拘束衣の老人がじわりと顔を上げる。
「皇帝の騎士が自らこのような所へ足をお運び下さるとは、なんとも恐れ多い」
「・・・貴方の処遇については自分が直接お伝えしようと思いました」
桐原の軽い厭味を無視して、スザクは胸元から一枚の紙を取り出す。革の手袋で書面を広げると、無表情のまま静かに口を開いた。
「被告、桐原産業総帥、桐原泰三」
よく通る、ハイトーンの声が狭い牢内に響く。
「被告は名誉ブリタニア人として市民権を得ながらも、神聖ブリタニア帝国領・エリア11にて秘密裏に『黒の騎士団』の活動を幇助し、国家への反逆行為に荷担した。よって帝国憲法第83条7項より、これを国家反逆罪とみなし、略式裁判において判決を申し渡す、」
深く息を吸い込むと、スザクは目の前の罪人へ宣告を下した。
「・・・被告、桐原泰三を銃殺刑に処す」
「ふん、欠席裁判で死刑というわけか」
独り言のように呟くと、老人はまるで他人事のように鼻で笑う。文書を丁寧に折り畳みながら、硬い声音でスザクが続けた。
「貴方の刑は明日午後に執行される予定です」
「ほほう、それはまた随分忙しい事で・・・これまでの取引を明るみに出されては困る輩も大勢おりますでしょうからなあ。連中、この老いぼれのおしゃべりがよほど恐ろしいと見える」
目前に迫る死に対して動揺した様子もなく、桐原は皮肉げな笑みを浮かべる。
桐原を筆頭とするキョウト六家は、ブリタニアの植民地支配に対して協力の姿勢を示す一方、各地のレジスタンス組織を支援するという、相反する行為を行ってきた。厳しい監視の中でそのような事が出来たということは、ブリタニア側による目こぼしがあったからに他ならない――――含みのある言葉に深翠色の瞳が微かに揺れた。
「・・・桐原公、」
努めて冷静に振る舞おうとするスザクを、桐原が斜めに見上げる。
「エリア11では未だに黒の騎士団の残党が各地で武力による抵抗を行っています。キョウト六家の長である貴方が彼らに与える影響は大きい・・・どうか貴方から彼らに降伏を呼び掛けてはいただけないでしょうか。もし自分に協力して下さるのであれば、」
天井に取り付けられた剥き出しの蛍光灯が、何かの合図のようにちらちらと点灯し始めた。スザクは逡巡するように目を伏せたが、再び顔を上げて真っ直ぐに老人を見据える。
「皇帝陛下に直訴し、貴方の助命を嘆願します」
「・・・取引きを持ちかけるか・・・おまえが、この儂に」
片膝を打ち、心底愉快そうに桐原が声を上げた。
「しかも仲間を売れと」
「・・・そうではありません。自分はこれ以上の犠牲を増やしたくない」
「皇帝直属の騎士、ナイトオブラウンズ、か」
くつくつと笑いながら、老人は俯いて痩せた肩を揺らす。真摯な瞳でスザクはその答えを待った。ひとしきり笑うと、桐原は表情を改めてはっきりと言った。
「有り難い申し出だが、それは御免こうむる」
「何故です、もうゼロはいない・・・結果は目に見えているはずです!」
「退けぬ戦いもあるのだよ、『枢木卿』」
感情を顕わに声を張り上げるスザクに、穏やかな様子で桐原が微笑む。拳を握りしめ、老人を睨み付けるように目を細めてスザクが唸った。
「自分は平和な日本を取り戻したいと思ってブリタニア軍に入りました。いずれナイトオブワンになって、直轄領として日本を手に入れるつもりです。そうすれば日本人の権利を取り戻し、平和な世の中を作る事ができる・・・だから、今は・・・」
「なるほど立派な心がけだ。だが、それでおまえが手に入れるのはブリタニアの領土、エリア11だ。『日本』ではない」
「それでも、血が流れないのであれば・・・!」
「代わりに心が死ぬ」
スザクの必死な訴えを桐原はあっさりと斬って捨てた。
「日本を日本人の手に取り戻せるというならば、売国奴と罵られようと、雑草を喰らおうと、恥を忍んで生き延びよう・・・だが、人から憐れみを受けて生きるのだけはどうにも我慢ならん。おまえとブリタニアに施しを受けて、一生飼われて生きるぐらいなら、いっそ死を選ぶ・・・それが儂の『日本人』としての生き方だ」
僕を憐れむな――――ずっと昔、異国の友人が吐き捨てた言葉がふとスザクの脳裏に蘇る。ブリタニアから人質としてやってきた幼い兄妹に対して、その待遇はお世辞にもよいとは言えなかった。君たちがもっといい生活が出来るように、自分なら父親に訴える事が出来る、母屋で自分と変わらない生活が出来るように頼んでみる・・・そう意気込んで話すスザクに、彼は首を振ってこう言った。僕は自分自身の力で立って、自分自身の力で掴み取ってみせる、だから僕を憐れむな、と。
「・・・憐れみだなんて・・・そんな、自分は・・・」
「おまえはブリタニアと共に生きる道を選んだ」
桐原の鋭い眼光がスザクの言葉を封じる。
「これからも残った『日本人』はブリタニアに対する抵抗を続けるだろう。それを排除しなくては、おまえの望みは叶うまい。」
瞳の険を和らげて、老人はスザクの顔を正面からじっと見据えた。
「だから『枢木卿』・・・おまえが儂を処刑するのだ」
「何を言ってるんです」
「ブリキの手に掛かるよりマシだ。それに、おまえの覚悟が見てみたいのだよ」
「勝手なことを・・・」
「なに、儂からの、最期の『宿題』だよ」
スザクは桐原から目を背け、唇を噛んだ。小さな独房が沈黙に包まれる。どれほどの時間が経ったのか――――強く握りしめた手が感覚をなくした頃、隔離棟の鍵を開ける音がして、二人のブリタニア刑務官が並んで入ってきた。雑談を交わしていた二人は、ナイトオブラウンズの衣装に目を白黒させて直立不動の姿勢を取る。
「これはナイトオブセブン殿、このような所にいらっしゃるとは」
「ご苦労・・・ところで何か用でも?この者には今自分が尋問をしている所だが」
「は、いえ、実は早急に囚人の移送を行うよう通達が下りまして」
上擦った声で刑務官の一人が言った。スザクが不審そうに眉を寄せる。
「どうして・・・刑の執行までにはまだ一日あるだろう」
「いえ、先程議会より刑執行を早めるよう要請があった次第です」
もう一人が慌てたように文書を取り出し、スザクに見えるように広げて掲げてみせた。そこには簡素な条文に、法務大臣の走り書きのようなサインが記されている。この法務大臣はエリア11の利権絡みで、昔から黒い噂のある人物だという事をスザクはふいに思い出した。
「それでは刑執行のため、これより桐原泰三を隔離房より移送します」
型どおりの敬礼を行うと、刑務官は鍵を開けて、薄暗い牢内に踏み込んだ。座り込んだまま動かない桐原に向けて、一人が爪先で膝を蹴り上げる。
「おい、聞いただろう。さっさと立たんか、ジジイ!」
「・・・どうか哀れな老人に手を貸していただけませんかね、」
屈辱的な扱いに対し、好々爺の笑みを浮かべて桐原が言った。
「取り調べの時に両足を砕かれてしまいましてね、一人じゃ立ち上がる事もままならんのです」
スザクの体が一瞬、小さく震えた。それに気付いた様子もなく、一人の刑務官が苛立たしげに舌打ちする。
「やれやれ、まったく手のかかるジジイだな。ほら、」
二人はぼやきながら桐原の両脇を抱え上げ、そのまま引きずるようにして牢を出た。白い拘束衣の下半身は拷問による血と汚物にまみれ、スザクは思わず俯いて目を逸らす。
「・・・たとえ独りでも、」
脇を通り抜けざまに、無抵抗だった桐原が身を乗り出してスザクの顔を覗き込んだ。刑務官達が何事かと足を止める。
「ちゃんと『宿題』を済ませるのだぞ、」
老人の言葉に、はっとしたようにスザクが顔を上げる。そこにはかつて日本を取り仕切ってきた老獪な策士の顔はなく、あの頃と変わらない、自分を見据える懐かしい微笑みがあった。
「儂がちゃんとお前の事を見ていてやるからな、スザク」
「・・・じいちゃん、」
口をついて出た日本語にブリタニアの刑務官が顔を顰める。二人は乱暴に桐原の身体を引き戻すと、今度は足を止める事なく小さな老人を引きずっていく。
「・・・じいちゃん、俺は、」
スザクの呼び掛けに答えず、重々しい扉の向こうに消えるまで、桐原は決して後ろを振り向くことはなかった。



08-12-09/thorn
08-12-10(revised)/thorn