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嗚 呼 、 無 常
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夜も更け人気のない水辺に、微かな衣擦れの音がゆっくりと近づいてくる。
やがて、薄い月明かりの下に白装束を纏った少女の姿が浮かび上がった。
少女はためらいもなく冷たい泉に素足を踏み入れると、腰の深さに至るまで水を掻き分けて進む。
浅い泉の中程まで進むと、清水に身を浸して軽く目を閉じ、手に捧げ持った白木の桶を水にそっと沈めた。
そして口の中で小さく文言を唱えると、高く桶を掲げて頭から冷水を浴びる。
降り注ぐ水が鏡のような水面を打って辺りに音を響かせた。
細く吐いた息と共に再び木桶に水を満たすと、少女は目を閉じたまま、左右の肩に水を振り掛ける。
豊かに流れる黒髪から透明な雫が滴り、澄んだ水面に大小の円輪を描いた。
「神楽耶様、」
周囲に満ちる静寂を破って、岸辺から女の声が響いた。
少女は身じろぎもせず、うっすらと目を開けて問い掛ける。
「・・・どうなさいましたの、咲世子」
「お勤めの最中に申し訳ありません・・・ですが、至急お耳に入れたい事が」
「なんです?」
普段らしからぬ緊迫した咲世子の声に、神楽耶の表情がふと曇った。
感情を押し殺した硬質の声が、少女の予感通り、悪い知らせを告げる。
「先刻、ブリタニア帝国の首都にて、キョウト六家の方々の処刑が執り行われたとの事です」
少女の細い手から白木の桶がするりと滑り落ちた。
「・・・そう、ですか・・・ブリタニアはやはりわたくしの・・・皇コンツェルンの嘆願を聞き入れてはくれなかったのですね・・・」
まだ幼さの残る、舌足らずな声が力なく水辺に響く。
「六家の、縁者の者たちはどうしました」
「全員捕らえられ、拘束状態だったという事ですが・・・本日の処刑で六家の方々と共に――――」
「皆・・・まさか・・・そ、んな・・・」
呆然と呟かれた言葉に、沈痛な表情で咲世子が顔を伏せた。
澱んだ水に喘ぐ魚のように、神楽耶が苦しげに肩で息をする。
「ブリタニアには、く、枢木の、おにいさまが・・・せめて・・・」
「大変申し上げにくい事ですが、」
顔を伏せたまま、咲世子が小さな背中に向かって残酷な真実を告げた。
「キョウト六家、桐原公の刑を執り行われたのは、ナイトオブセブン・・・枢木スザク様との事でございます」
神楽耶の口から微かに呻き声が漏れた。 水に浮かぶ白装束の後ろ姿がおこりのように震え出す。
「・・・これから自分のすることは、全て日本のためだと・・・あの日・・・家を出るおにいさまは私にそう言って・・・」 「神楽耶様、」
咲世子が気遣わしげに声を掛けた。 しばしの沈黙の後、神楽耶は無言のまま水面に浮かんだ木桶を手に取り、水を掬い上げる。 二度、三度と冷たい清水が少女の身を激しく打ち据え、水面が大きく揺れた。 頬に跳ねた水滴を拭いもせず、神楽耶は朧げな月を見上げる。
「わたくしは・・・ブリタニアとの戦争が始まるまで、枢木の里で暮らしていました。ゲンブおじさまや、スザクおにいさま、桐原のおじいさまと一緒に」
誰に語られるでもない呟きが、溜息と共に夜のしじまに響く。
咲世子は黙したまま、その声にじっと耳を傾けた。
「桐原のおじいさまは厳しい方でしたけれど、私にとっては本当の祖父のようでした。枢木のおにいさまも、きっと・・・そうだと思っていたのですけれど」
神楽耶の頬を一筋、透明な水が伝って落ちる。
「本当に、変わってしまったのですね、あの人は」
幼い頃の、穏やかな日々を想って涙する少女を、顔を上げた咲世子が痛ましげに見遣った。
かつて日本を表裏から支え、束ねていた皇家とその一門の生き残りは、ブリタニアに組みする枢木スザクを除いて彼女だけになってしまったのだ。
その細い肩に掛かる重みはどれほどのものであるか――――
「・・・もう大丈夫ですわ、咲世子」
何かを断ち切るように、神楽耶がいつもの明るい表情を作って振り返った。
取り乱した事を恥じるように、少女は身をすくめて可愛らしく首を傾げる。
「こんな遅くに申し訳ないのですけれど、お部屋に祭具の準備をしていただけますかしら。一族の御霊を・・・お送りせねばなりません」
「かしこまりました」
気丈に振る舞う神楽耶の心情を汲み、咲世子は深く一礼するとその場を去った。
再び泉の周辺に痛いほどの静寂が下りる。
神楽耶は穏やかな表情のまま、彼方を見据えて瞳を細めた。
「本当に、何も変わりませんのね、あの人は」
密やかな棘をはらんだ言葉が無邪気な唇から紡がれる。
涙の筋をつけた白い頬が皮肉げな笑みの形に歪んだ。
「相変わらずのお馬鹿さんですこと。八年前だってそう、どこへ逃げたって、自分の血と過去から逃れる事なんて出来るはずありませんのに・・・それに私がまだ生き残っているんですもの」
神楽耶はうふふ、と笑い声を漏らした。
日本では、ブリタニアの手を僅かに逃れた黒の騎士団が、ブラックリベリオンの際に行方不明となったゼロの手がかりを掴んだという。
遠からず『ゼロ』は復活する・・・そして、その隣に立つのは――――
「わたくしは、日本国を統べる皇家の当主」
どんなに足掻こうとも、己が身に流れる血と受け継がれる過去からの重圧を消し去る事など出来はしない。
ならばそれごと飲み込んでこそ、と神楽耶は考える。
「忘れる事など許しませんわよ、枢木スザク・・・貴方がその名を負う限り・・・私の事も、日本の事も、そしてゼロ様の事も」
深翠に輝く大きな瞳を見開くと、少女は再び木桶を手に取った。
肩の力を抜き、夜の闇を掬うように白い手を翻す。
水面に映った金色の月が、伝わる波紋にゆらゆらと滲んで消えた。
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08-11-24/thorn
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