ハ ッ ピ ー ・ エ ン ド




時間が全てを解決してくれる・・・そう言ったのは誰だったろう。
だが七年という年月が経った今も、いまだ胸の内が晴れることはない。
眼下に広がる街並みを前に、スザクは静かに目を伏せた。
あの時から自分は何も変わっていない。
それは高台から一望できるこの東京も同じだ。
整備された租界と瓦礫に埋もれたままのゲットー・・・その境界は明らかで、上から見た白と黒のコントラストは美しささえ感じさせる。
その奇妙な風景を眺めながら、スザクは独り、きつく唇を噛み締めた。
七年前に黒の騎士によって引き起こされたブラック・リベリオン――――各地の反乱は軍によってすぐに鎮圧されたものの、ブリタニアとイレブンの双方に多くの犠牲者を出した。その後、エリア11は矯正区域としてさらなる圧政をひかれ、イレブンと呼ばれる日本人たちは今も苦しい生活を強いられている。
・・・すべてはゼロのせいだ。
固く握った拳が小さく震える。
みんな彼に騙され、利用されたのだ・・・日本人もユフィも、そして自分も。
だから自分は、ゼロを――――

そのとき、スザクの足の脛に何かが軽く当たった。
驚いて見下ろせば、幼い子供が片足にしがみついている。
スザクは肩の力を抜くと、笑顔を浮かべて言った。
「こんにちは、どうしたの?」
優しく声をかけると、子供はきょとんとした顔でスザクの顔を見上げる。
年の頃は二、三歳ぐらいだろうか。ふわふわしたウェーブの髪が可愛らしい女の子だ。手作りらしいレースのワンピースがよく似合っている。
「迷子かな・・・パパとママはどうしたの?」
スザクは小さな子供の目線に合わせて膝を折った。
女の子はもじもじと体を揺らしながら、はにかんだ様子で押し黙っている。
その顔を覗きこんで、スザクはふと息をのんだ。
自分を真っ直ぐに見つめる瞳の色は、深く澄んだ紫。
懐かしくて優しくて、それでいて苦い思いを呼び起こす、彼と同じ――――

「こらあ、ナナリー!」
ふいに響いた声にスザクはびくりと体を震わせた。
「ダメじゃないか、勝手に離れちゃ・・・」
耳に心地良いハイトーンの声が近づいてくる。
女の子が顔を上げて、くるりとスザクに背を向けた。
満面の笑みを浮かべると、声の方へと勢いよく走り出す。
「あっ」
足がもつれて転びそうになった瞬間、間一髪ですらりとした腕が子供をすくい上げた。目線が高くなって、女の子が嬉しそうな声を上げる。
「パパー!」
「ほら危ない!まったくもう・・・すみません、ご迷惑をおかけして」
子供を抱きかかえて、若い父親がスザクの元へと歩み寄った。
スザクはゆっくりと立ち上がって、声の方へと向き直る。
一度祈るように目を伏せ、そして正面から相手を見据えて言った。
「いえ、大丈夫です」
「そうですか、それならよかった・・・あれ?」
向かいに立った男が驚いたように目を見開く。
「・・・スザク?枢木スザク、だよな?俺の事、覚えてるか?」
男は腕に抱いた子供と同じ、紫紺の瞳を細めて言った。
「ルルーシュだよ、ルルーシュ・ランペルージ。高校の時にクラスが一緒だったんだけど・・・」
「・・・ああ。覚えてるよ、ルルーシュ」
スザクが低く答える。
その言葉にルルーシュがほっとしたように笑った。
スザクは微かに口元を歪める。
その声、その顔・・・忘れられるはずがない。
七年前、仮面を割って現れたゼロの素顔は、それまで一番の親友だと思っていた男と同じ顔をしていた。
禍々しい力を宿し、燃えるように紅く輝く瞳が今でも瞼の裏に強く焼き付いている。
スザクの内心を知らず、ルルーシュが懐かしげな調子で続けた。
「本当に久しぶりだよな。元気そうで何よりだよ。まあ、おまえの活躍はいつもテレビや新聞で聞いてるけど・・・こらナナリー!やめなさい!」
抱いた子供がスザクに手を伸ばそうと身を捩る。
バランスを崩す小さな体を、ルルーシュが慌てて抱えなおした。
「・・・この子は、」
「ああ、うちの娘。ナナリーって言うんだ、いい響きだろ?」
「『ナナリー』、か・・・」
スザクはじっとルルーシュの表情を窺った。
特に不自然な様子もなく、左目にギアスの兆候も見えない。
娘自慢に相好を崩す、その姿は子煩悩な父親以外の何者でもなかった。
苦々しい思いを胸に、スザクは目の前の親子から視線を逸らす。

七年前・・・ゼロを捕らえ、彼の父親であるブリタニア皇帝の前に突き出したのは他でもない、スザクだった。彼が父を憎み、ブリタニアを倒すために全てを捨てて生きてきたことも承知の上である。皇帝によって、ルルーシュは死を免れた。それは『息子』としての酌量ではない。ただ、C.C.という女をおびき寄せるための『生き餌』として生かされたのである。
皇帝がその記憶を改竄してからというもの、スザクはルルーシュとの関わりを一切絶っていた。機密情報局が逐一彼の動向を探っているのは知っていたが、もうなんの興味もわかなかった。
既に彼はゼロではない。
そして、スザクの知る『ルルーシュ』ですらない。
・・・ルルーシュは全て忘れてしまったのだ。
命より大切な妹の事も、尊敬していた母親の事も、神社ですごした夏の日の事も、ゼロとなって犯した罪も――――何もかも、全て。
ただ、彼が記憶を取り戻し、再びゼロとして現れるなら・・・必ず自分が討とうと決めた。そういった動きがあるのなら、誰を差し置いても自分に連絡を入れてもらえるよう、皇帝に約束を取り付けた。
それから今に至るまで、ゼロについてスザクに連絡があった事はない。
頭首を失った黒の騎士団は瓦解し、ゼロも今は昔語りの中にだけ登場する存在となっている。

「・・・それで、女の子だっていうのにお転婆で手を焼いてるよ・・・まったく誰に似たんだか」
幼い娘をあやしながら苦笑するルルーシュに、昔のような影はない。スザクが何か言おうと口を開きかけた、そのとき。
「ルルーシュ、ナナリー!」
肩越しに、親子の名を呼ぶ声が響いた。声の方へと視線を移すと、長い髪の少女が手を振りながら小走りで駆け寄ってくる。その姿を認めた途端、ルルーシュが血相を変えた。
「なっ・・・馬鹿、走るなッ!」
制止も聞かず、駆け寄った少女がルルーシュの傍らに立つ。
「ねえ、なんのお話をしてるの?」
「・・・マリアンヌ!何度言ったらわかるんだ、走ったりしたらダメだろう!」
「あら、大丈夫よ!私、ルルーシュみたいに何もない所で転んだりしないもの」
マリアンヌと呼ばれた少女が小首を傾げて微笑む。ふわりと広がるワンピースから、やんわりと膨らんだ下腹部が見てとれた。
「そう言う問題じゃなくて、何かあったらどうするんだ!?ああもう・・・絶対にこの子の性格は君譲りだ・・・!」
肩で大きく息をついて、ルルーシュが項垂れた。
お小言を気にした風もなく、マリアンヌが口元に手を当てて楽しそうに笑う。
若々しく、可憐な笑顔はまるで鮮やかな花が咲いたようだった。
「・・・ユ、フィ・・・?」
スザクが掠れた声で呆然と呟く。
そして、意図せずそう呟いた自分にスザクは愕然とした。
目の前の女性とユーフェミアとは、決して顔そのものが似ているというわけではない。しかし、よく変わる表情と、その身にまとう無邪気で明るい雰囲気が、スザクにどうしようもなくかつての主君を思い起こさせるのだった。
「あらあら?あなた、もしかして、この方は・・・」
スザクに気が付いて、マリアンヌが顔を輝かせる。
ルルーシュが再びため息をついて頷いた。
「もしかして、枢木卿、ですよね!?ナイト・オブ・セブンの!わたくし、ルルーシュの妻でマリアンヌと申します・・・お会いできて光栄ですわ!」
「こいつ、おまえのファンなんだよ。ニュースに出てくると大騒ぎでさ・・・」
「あら、あなただって枢木卿が載ってる雑誌は必ず買うじゃない?」
「う、うるさいな・・・当たり前だろう、友達なんだから!」
本人を前にして、バツが悪そうにルルーシュが顔を赤らめる。
夫の様子に微笑むと、マリアンヌはスザクを見上げて優しく目を細めた。
「私たちだけじゃなくて、エリア11に住むブリタニア人は、みんな枢木卿をご贔屓にしてるんですよ?ブラック・リベリオンの時、枢木卿がいなかったら・・・今のエリア11はなかった、って」
「・・・ああ、こいつがゼロを捕らえてくれなかったら、俺たちは今、ここにいないだろうな」
どこか得意げな顔のルルーシュから、スザクは思わず目を背ける。ふいにマリアンヌが胸の前で手を合わせて、ルルーシュの方を振り向いた。
「ねえあなた、私いいこと思いついたんだけど!もしお腹の子が男の子だったら、枢木卿のお名前を頂けないかしら?」
「・・・スザクの名前を?それはいい考えだな」
二人は顔を見合わせて頷くと、戸惑った表情のスザクに向き直る。
「実は、もうすぐ二人目が生まれるんだ。ぜひ、おまえの名前をつけたいと思うんだが・・・なあスザク、いいかな?」
ルルーシュが少し照れたように微笑んで頬を掻いた。
その隣でマリアンヌが愛おしそうに膨らんだお腹を撫でる。
期待をこめた四つの瞳に見詰められて、スザクが小さく口籠もった。
「あ、ああ・・・別にそれは・・・構わないけれど・・・」
「本当ですか?よかった・・・!きっとブリタニアを背負って立つような、立派な子になりますわ!」
マリアンヌが破顔して、スザクの片手を取った。白く細い柔らかな指が、今まで数々の罪を裁き、血に染まった手を包む。スザクはその手を思い切り振り払いたい衝動に駆られた。やめろ、と叫び出したい気持ちを必死に押しとどめる。
やめろ!おまえたちに感謝される事なんて、俺は何一つしてない――――
すると何かを察したかのように、さっきまで静かにしていた子供が父親の首にしがみついてぐずりだした。ルルーシュが慣れた手つきで、小さな背をさする。
「あら、ナナリーお腹がすいたのかしら?そろそろ帰りましょうか」
「そうだな・・・なあスザク、よかったら家に寄っていかないか?」
娘をそっと腕から下ろして、ルルーシュがスザクに向かって声を掛ける。
口元にどうにか笑みの形を貼り付けて、スザクは言葉を絞り出した。
「・・・いや、悪いけど今日は遠慮しておくよ。用事があるんだ」
「そうか、残念だな・・・じゃあこれを」
ルルーシュは懐から一枚の名刺を取り出して、スザクの手に握らせる。
名刺には社名と共に『代表取締役 ルルーシュ・ランペルージ』と書いてあった。
「よかったら連絡くれよ。生徒会のみんなもおまえに会いたがってるから」
受け取った名刺をじっと眺めて、スザクが呟く。
「・・・ルルーシュ、会社を経営してるの?」
「ああ、まだ小さいけど、リヴァルと一緒にシステム関連の会社を始めたんだ。そういうのは昔から得意だったからな」
彼らしい、自信とプライドに溢れた表情が覗いて、スザクは眩しそうに目を細めた。その後ろから子供が父親を呼ぶ声が響く。
「今行くよ・・・じゃあまたな、スザク」
「・・・じゃあね、ルルーシュ」
幼いナナリーを真ん中に挟み、ルルーシュとマリアンヌが両脇からその手を取った。楽しげな笑い声を上げながら、親子は街へと続く坂道を下りていく。
小さくなる後ろ姿を見つめながら、スザクは唇を震わせた。
・・・それはかつて、ルルーシュとスザクがずっと憧れていた『家族』の姿だった。
ナナリーが寝入った頃、薄暗い土蔵の天井裏で、二人は何度も額を寄せて語り合ったものだ。求めても、願っても、決して与えられる事のなかった、ささやかで温かい『家族』の夢を――――
「これで、良かったんだ」
そう言って、スザクは頭上に広がる空を見上げた。
澄みきった気持ちのいい青空に反して、何故か胸の奥がじくじくと痛む。
そう、ルルーシュは全て忘れてしまったのだ。
命より大切な妹の事も、尊敬していた母親の事も、神社ですごした夏の日の事も、ゼロとなって犯した罪も――――何もかも、全て・・・彼は覚えていないのだ。だから、そんなちっぽけな、幼い頃の想い出など覚えているはずがない・・・いや、覚えていてはならないのだ。
「僕は、正しい事を、したんだ」
まるで自分自身に確かめるように、スザクは一言一言を噛みしめるように呟く。
ルルーシュは恐ろしいテロ活動を忘れ、仕事をして家庭を持ち、このエリア11で平和に暮らしている。彼の妹だって、今は本国の施設で治療を受け、何不自由なく穏やかに暮らしているのだ。スザクが気に病む事など何一つない。
・・・それなのに、何故こんなにも胸が苦しいのだろう。
・・・何故悲しく、寂しいと思うのだろう。
こうなる事を望んだのは、ルルーシュではなく、スザク自身だというのに。
スザクは受け取った名刺に目を落とした。
真っ白な名刺の真ん中に、流麗な書体で彼の名前が浮かんでいる。
ルルーシュ・ランペルージ――――スザクにとって初めての、そして最悪の『友達』だった男。
スザクの知る『ルルーシュ』は死んだ・・・忌まわしい男、『ゼロ』と共に。
もう二度と会う事もないだろう。
「僕は、間違ってない」
はっきりと口に出すと、スザクは名刺を握りつぶした。
折れ曲がった名刺をポケットにねじ込みながら、スザクの脳裏にはなぜか古い絵本が浮かびあがった。幼い頃はよく、土蔵の奥からぐしゃぐしゃになった本を引っ張り出して、異国の兄妹に日本の物語を読み聞かせたものだ。鬼退治の話も、宝物を探す話も、どれも最後は同じ終わり方だったが、幼い兄妹はことさらにそれを喜んだ。うっすらと微笑んで、スザクは最後の一節をそらんじる。
「そうしてみんな、いつまでもしあわせに、くらしましたとさ」
・・・だが今はもう、そんな昔話を覚えている者は自分の他にないのだ。
スザクは俯くと、ゆっくりと目を閉じ両手で顔を覆う。
そして喪ったものを想い、たった独り、声を殺して泣いた。




08-05-06/thorn