――――全体、駆け足用意!」

雲一つなく、晴れ渡った夏空に鋭い号令が響く。鈍色の装甲服を身に付け、炎天下で直立していた小隊が『駆け足』の姿勢を取った。命令が下されるまでの数秒・・・兵士たちの間に微かな緊張が走る。

「よし・・・進めッ、二十周だ!」
「Yes, my load!」

声を合図に、下級兵の一団が足並みを揃えて走り出した。軍靴が規則正しく地表を刻み、その足下から砂埃を巻き上げる。併走する上官が鬼のような形相で兵士たちに檄を飛ばした。

「スピードを上げろ!」」
「Yes, my load!」
「列を乱すな!遅れる奴がいれば、罰として追加十周だ」
「Yes, my load!」

小隊の全員が即座に返答し、駆け足の速度が上がった・・・しかし、この茹だるような暑さである。広大な演習場には太陽を遮る物もなく、ギラギラと強い日差しが照り付けている。半周もしないうちに兵士たちの足取りは重くなり、各々の顔に苦しげな表情が浮かび始めた。
周回数がようやく十を数えようとした頃、列から一人の男が遅れ始めた。上官がすかさず容赦のない罵声を浴びせる。

「・・・おい、このノロマのデブめ!何をやっている!」

弾かれたように身体を震わせると、男はよろめきつつ集団の最後尾を追う。その年齢は三十代半ば過ぎといったところか・・・顎には軍隊には不似合いな髭がたくわえられている。若い年代が多い下級兵の中で、男の姿は特に周囲から浮いて見えた。
列に戻った男を同僚たちが横目で睨み付けると、直ちに怒号が飛ぶ。その命令は鞭のように小隊を打ちのめした。

「なんたる脆弱さ!これは小隊全体の責任だ・・・貴様ら全員、追加十周!」
「Yes, my load、」
「声が小さい!」
「Yes, my load!」

暑さと苦しさを振り払うように、兵士たちの掛け声が大きくなる。演習場に立ち上った陽炎が、走り続ける小隊の姿を幻のようにゆらめかせた。




   *   *   *




――――よし、全体止まれ!今から10分間の休憩とする。各自、水分を補給しておけ」
「Yes, my load!」

上官が兵舎へと背を向けた途端、小隊の緊張が解ける。訓練が始まってから、既に四時間近くが経過していた。列から遅れて走っていた男が崩れるように膝をついて、呻きながら口元を押さえる。軍の過酷な訓練において、極度の疲労によって吐き気を催すなど珍しい光景ではない。
若い兵士たちはどうにか息を整えると、男を気にした様子もなく、疲れた足取りで演習場の隅にある水飲み場へ歩いていく。同僚たちが次々と素通りする中、一人の青年が男の前で足を止めた。身体の表面を焦がすような熱射が遮られ、男の頭上に小さな影ができる。

「あの・・・大丈夫ですか、殿下」

やっとの事で嘔気をおさめると、オデュッセウス・ウ・ブリタニアはゆっくりと顔を上げた。

「・・・ああ・・・すまない・・・大丈夫だ。それより皆にまた迷惑をかけてしまった」
「はぁ・・・あっ、いえそんな」
「本当に申し訳ない」

正直に頷きかけた青年が慌てて言葉を濁す。深く息をつくと、オデュッセウスは身を起こして苦笑した。

「軍の訓練がこんなに厳しいものだとは知らなかったよ。一応、士官学校で一通りの訓練は受けたはずなんだがね・・・今思えば、あれは私のために訓練メニューを変更していたんだろうな」

ぐったりと足を投げ出して座ると、未だ息を整えながらオデュッセウスは遠く宮殿の方向を見遣る。

「士官学校では、戦いに必要なの物は優れた指揮官であると教わってきた。しかしブリタニア軍が優秀なのは、一人一人が優れた兵士だったからなのだな。まあ、私は一度も軍を指揮した事はなかったがね・・・」

ぼんやりと独り言を呟く男を見下ろして、青年が戸惑いがちに尋ねた。

「あの、殿下は自らここに志願してきたと伺ったのですが・・・」
「ああ・・・ルルーシュが皇帝に即位して、地位も財産も全て没収されてしまってね。行くところもなくて途方に暮れていたんだが、そうしたらルルーシュがこう言うんだ・・・『貴様は軍の一兵卒として人民のために奉仕せよ』、とね」

半分とはいえ血の繋がった兄であり、次期皇帝だったはずのオデュッセウスに対して、軍でも最下層の一等兵を命じるとは酷な処遇である。そっと眉を寄せる青年に向かって小さく首を振ると、オデュッセウスは口端に笑みを浮かべた。

「私には何の才能もないからね・・・確かに出来る事と言えば身体を動かすことぐらいだ。一から自分を鍛え直すというのも悪くない・・・そう思ったら急にやる気が出てきて、自分から軍に志願したんだよ。まあ、こんな風に皆に迷惑を掛けてばかりだけれど」

よいしょ、と声を出してオデュッセウスがふらつきながら立ち上がる。衣服についた砂を両手で丁寧に払って、青年の顔を正面から見据えた。

「私はこれまでずっとブリタニアの恩恵を受けて生きてきたからね。これからは少しでも国に貢献できたらいいと思うんだ・・・私なんかじゃ、あまり役に立たないかもしれないが」
「いいえ、ご立派な志だと思います、殿下」
「いやいや・・・それより、その呼び方と言葉遣いはやめてくれないか?私はもう皇族ではないからね」

まるで邪気のないオデュッセウスの態度に触れて、青年が感心したように二度頷く。オデュッセウスは片手を額に翳して、天頂に輝く太陽を見上げた。こめかみから流れる汗を拭って、傍らの青年も強い日差しに目を細める。

「この国はこれから大きく変わっていくんだろうなあ。ルルーシュ・・・いや、皇帝陛下は頭が良くて才能もあるから、きっと良い国になると思うんだ」
「そうですね。さあ今は休憩に行きましょう、オデュッセウス・・・さん」

青年が肩を叩くと、オデュッセウスが嬉しそうに顔をほころばせた。水飲み場へと足を向けた二人の頭上を、一陣の熱風が吹き抜ける。

「おや、」

兵舎の向こうに広がる空を見渡すと、ちょうどブリタニア宮殿の上あたりに黒い影がぽつんと現れた。青のキャンバスに浮かんだ小さな染みに、二人は首を傾げる。

「・・・あれは一体、」

オデュッセウスが呟いた瞬間、上空の黒い影が弾けた。
目も眩むような、白くまばゆい光の玉が急速に広がり、人口一千万を誇る首都ペンドラゴンとその周辺地域を覆い尽くす――――そして一瞬後、音もなく全てが無に還った。




09-08-02/thorn