永 遠 の 春




 厳しい冬の寒さも時が経てば和らぎ、やがては春という気節に移り変わる。凍てついた太陽は徐々に緩み、白く濁った氷が溶け出して小川に一筋の清水を運んだ。スザクは髪を揺らした風に目を細め、押していた車椅子をそっと停める。傍らに立つ老木をどこか懐かしむような目で見上げ、車椅子の人物に話し掛けた。 「風が暖かくなったね。ほら、桜の木にもう蕾がついているよ」 スザクはうっすらと微笑むと、答えを待たずに再び車椅子をゆっくりと押し始める。旧型の車椅子がきいと耳障りな音を立てた。 「近くの川沿いの道にはね、桜並木が続いているんだ。花が咲いたら一緒に出掛けようね」 返答はない。気にした様子もなく、スザクはまだ草花が芽吹く前の、土ばかりの花壇の前へと車椅子を押し進めた。花壇の脇には木蓮が植えられ、枝先に大きな紅紫の花を咲かせている。スザクは降り注ぐ陽光に向けて車椅子を停めると、正面に回りこんで落ちかけた膝掛けを直し、襟元のマフラーを整えた。車椅子の『彼』は俯いたまま身じろぎもせず、為すがままに任せている。 「ああ少し髪が伸びたね。今度、鋏を借りて切ってあげよう」 足下に跪いたスザクが手を伸ばして、物言わぬ『彼』の前髪をそっと掻き上げた。濡れた様に艶やかな黒髪の間から、日に透けるような白い肌が覗く。スザクは膝掛けの上に投げ出された細い手を取り、しばらくの間、じっとその顔を眺めていた。整った顔立ちは精巧な人形のようで、その瞳は閉じられ、長い睫毛が小さな影を作っている。スザクは手を伸ばし、震える指で『彼』の色を失った唇に触れた。戸惑う指先に浅く湿った呼気が触れ、軽く安堵の吐息を漏らす。スザクは再び痩せた手を取ると、その温もりを確かめるように頬を寄せた。背中を照らす陽光の温かさがじわりと身体に染みこんでいく。庭園の片隅で、彼らは一対の塑像のように佇んでいた。

 やがて空を往く鳥の群が森へ還り、陽の色に朱が混じる。 「そろそろ戻ろうか」 遠く響いた雑音混じりのチャイムに、スザクはゆるやかに顔を上げた。 「またしばらく来られなくなるかもしれない」 小さな独白に、握った『彼』の手が微かに動く。 「何か欲しいものはあるかい、次に来る時には必ず用意するよ」 名残惜しそうに手を取ったまま、スザクはじっとその答えを待った。長い沈黙の後、唇が薄く開き、乾いて掠れた声がゆっくりと、きれぎれに届く。 「・・・おまえが、いれば、いい」 スザクは深翠の瞳を潤ませ、身を乗り出すとその耳元にいとおしげに囁いた。 「大丈夫だよ・・・僕はずっと君のそばにいる」 返る言葉はない。それでもスザクは満足げに微笑み、静かに立ち上がると車椅子のハンドルを握る。車椅子の車輪が再び耳障りな音を立てた。

 白い建物の入り口では、医師と看護士が並んで二人を待っていた。看護士の女性は日本人で、軽く会釈するとスザクに代わって車椅子のハンドルを取る。 「じゃあ、また来るからね」 呼び掛ける声にも『彼』の反応はない。スザクの声だけが殺風景なエントランスに反響して響いた。 「枢木少尉、よろしいですか」 奥へ向かう車椅子を見送るスザクの前に、中年の男性医師が進み出る。 「『彼』の視力の事なのですが、」 窓から差し込んだ夕日がリノリウムの床に反射して廊下を紅く染めた。看護士と車椅子は通路を突き当たり、その角をゆっくりと曲がって視界から消える。 「我々も努力は致しましたが、恐らく二度と光が戻る事はないでしょう」 沈痛な表情で宣告する医師に、スザクは車椅子が消えた角を切なげに見詰めたまま、緩慢な動きで頷いた。 「そうですか・・・それは良かった」 同調して頷きを返そうとした医師が一瞬遅れてその意味を飲み込み、顔を強ばらせる。スザクは医師に向き直ると、姿勢を正して軍式の敬礼を行った。

 門をくぐり、軋む鉄の柵を閉めたところで、スザクは夕闇に沈む古い療養所を振り返る。あの窓の明かりのどれかに『彼』がいて、今頃はベッドに身を横たえ、微睡んでいる頃だろう。スザクは軽く息を付くと、踵を返して駅に続く寂れた道を辿った。道に沿って並んだ街灯がちらちらと明かりを灯し始める。薄闇はすぐに空を覆い、星の光を浮かび上がらせた。いつの時代も変わらない、その輝きを見上げながら、スザクはぼんやりと『彼』を想う。・・・光と自由、そして『王の力』を失った今、『彼』は一体どんな夢を見ているのだろう。夜の風はまだ冬の名残を拭いきれず、凍える手でスザクの頬を撫でる。あの日、スザクは『彼』の脚を砕いて両眼を焼き、絶対の力を奪って、その存在を世界から抹消した。死すら選ぶことの出来ない苛酷な罰によって『彼』の意識は静寂の海に沈み、今は正気を保っているかどうかすら定かではない。かくして、うち捨てられた哀れな皇子の復讐劇は幕を閉じ、世界に平穏が訪れた。エリア11は再び軍の統制下に置かれ、徐々にではあるが復興の道を歩みつつある。 「憎めばいい、」 スザクは一人、『彼』の言葉を口ずさんだ。 「憎んで、恨んで、殺せばいい・・・この俺を」 南の空に低く、青白く燃える星が瞬いている。子供の頃、よく丘の上から眺めた一等星だ。虚ろな瞳で空の星を追いつつ、スザクは口元に笑みを浮かべる。季節はやがて移りゆく。春は夏に、夏は秋に、秋は冬に、冬は再び春に。そうしてまたぐるりと巡って、果てる事なく永遠に、同じ約束事を繰り返していくのだ。 「それまでずっと、僕は君のそばにいるよ。ねえ――――」 スザクは虚空に向かって、今では誰も口にする事のない『彼』の名を呼んだ。その声に応える者は、もうどこにもいない。



07-08-03/thorn