滄 海 は 底 な く 深 し





何故、私に自由を――――



心を占めるやり場のない怒りは、その光景を前に失われた。
ダモクレスの執務室へと乗り込んだカノンは、開け放った扉をそのままに、部屋の入り口で立ち尽くす。一面を占める大きな窓からは傾き掛けた陽の光が差し込み、遙かに広がる下界の光景を絵画のように映し出していた。

「この件だが、これよりEU側の協力を仰いだ方が効率がいいと思うよ。双方にとって利があるからね、」
「なるほど、いい案ですね・・・さすが兄上です」
「フフ、おまえの案を元にしたものだよ。後で関係者には根回ししておこう」

朱に染まった室内に浮かび上がるのは二つの影――――重厚なデスクにつき羽ペンを走らせる男と、その傍らに寄り添い立つ少年の姿だった。書類をめくる紙の音、気安く交わされる会話、睦まじい笑い声・・・温かく満たされた空気の中で、カノンだけが一人、凍り付いたようにその場に動けないでいる。

「何故戻った、マルディーニ伯」

楽しげに会話を交わしていた少年が、ふと首をめぐらせてカノンの方へ顔を向けた。涼やかな笑みとは裏腹に、冷たく威圧的な言葉が室内に響く。

「私は貴公を解放したはずだが?」

落ち着きを取り戻すようにゆっくりと深呼吸すると、カノンはいつものように一礼して部屋の中へと足を踏み入れた。主の為に選び抜かれた調度品、壁に掛かった有名画家の絵画、重厚なマホガニー製のデスク・・・執務室の光景は昨日のそれと何一つ変わる所はない。それなのに、今は全く知らない場所に入り込んだように違和感を覚える。内心の動揺を悟られぬように眦を吊り上げると、カノンは自分に向けられた問い掛けを無視して少年を睨み付けた。

「では、何故私にだけギアスをかけないのですか、ルルーシュ様」

白い手袋に包まれた拳が微かに震える。押さえたトーンの裏にプライドを滲ませて、カノンは冷たい光を放つ紫の双眸を正面から見返した。

「他の者と同様、私にもゼロの意に染まれと命じれば良いではないですか。それとも、私にはギアスをかける価値もないと?」
「ギアスを使う必要がないと判断した」

ルルーシュはカノンから目を逸らすと、身を屈めて傍らの男に囁く。

「そうですよね、兄上」
「ああそうだね、ルルーシュ」

隣に立つ少年を仰いで、男は柔らかく微笑んだ。
ルルーシュは笑みを深めると、ゆっくりと頷いてみせる。

「シュナイゼル様、」

わななく唇が主の名を紡いだ。
そこで初めて存在に気が付いたかのように、シュナイゼルが顔を上げてカノンの姿を見据える。

「どうしたんだい、カノン。少し顔色が悪いようだが?」
「・・・シュナイゼル様、何を」
「今、ルルーシュと今後の計画について話し合っている所だよ」

それがゼロの望みだからね、と言ってシュナイゼルは穏やかに笑いかける。操られた主君を前に、カノンはその場に立ち尽くした――――ゼロへの怒り、ギアスへの恐怖、シュナイゼルに対する困惑・・・様々な想いが交錯して、続ける言葉が見当たらない。

「何故戻った、マルディーニ伯」

そんなカノンを見透かすように、ルルーシュが紫紺の瞳を細めた。

「この男はもう以前とは違う。自らの意志を持たず、ゼロの望みを果たす下僕に成り果てた・・・しかし忠義に厚いおまえが、この男に敵対する行動を取るとは思えない。だからこそ、見逃してやったというのに」
「いいえ、殿下は・・・シュナイゼル様は、何も変わっておられません。だから、私はここに戻って来たのです」
「変わらない、だと?」

その言葉に興味を惹かれた様子で、ルルーシュが改めてカノンに向き直った。シュナイゼルはまるで二人のやり取りが聞こえていないかのように、手元の書類に目を落としている。

「殿下は、本当に・・・あらゆる面で完璧な御方でいらっしゃった」

斜光に浮かぶ二人の姿を眺めながら、カノンが静かに口を開いた。

「何者も敵わぬ優れた知性を持ち、万人の心を掴むカリスマ性があり、何より王者に相応しい風格を持っている・・・私は一人の人間としてシュナイゼル様を尊敬し、愛していました。だから、この方の望みであれば、何でも叶えてさしあげたかった。不遜ながら、私はお父上やオデュッセウス様に変わって帝位を掴むようにと進言申し上げたこともあったのです。たとえ反逆罪に問われようと、その為に多くの命が失われようと・・・殿下がそう望まれるのであれば、私は怖くなかった」

滔々と語られる独白を聞きながら、ルルーシュが傍らの兄を見遣る。逆光に照らされて、その表情はよく見えない。身体の震えを押さえるように片腕を抱き、カノンは無理矢理笑顔を作ってみせた。

「でも、シュナイゼル様は何も望んでいらっしゃらなかった。本当に何も・・・それを変えたのはあなたです、ルルーシュ様。あなたが生きていると知って、あなたがゼロであると知って、初めて殿下はご自分の『望み』を我々に示された」

一端口に出せば、今まで長く溜め込んでいた感情が次々に身の内から溢れ出してくる。込み上げる激情に任せて、カノンは声を荒げた。

「殿下は世界を手に入れたかったわけではありません。ましてや神になりたかったわけでもない・・・ルルーシュ様、全てあなたがいたからです。あなたのために、殿下は・・・!」
「おや、どうしたんだい、ルルーシュ?そんな顔をして」

糾弾は聞き慣れたテノールによってふいに遮られた。
書類にサインする手を止めて、シュナイゼルが傍らに立つ少年の顔を覗き込む。

「・・・何でもありません、兄上」
「そうかい?困ったことがあるなら何でも相談しておくれ、私が対応しよう」

それがゼロの望みだからね、と言ってシュナイゼルは再び書類に向き直った。日が沈みかけて和らいだ光の中、哀しげに歪んだ少年の顔が一瞬だけ照らし出される。思いがけない光景に、カノンは小さく目を見張った。

「お許し下さい、筋違いな私自身の考えを申し上げました・・・ルルーシュ様とこの世界の覇権を争うこと、それこそが殿下自身の『望み』でしたのに」

謝罪の言葉にもルルーシュは無言のまま身じろぎもしない。徐々に沈んでいく太陽と共に、執務室の影が一層色濃くなった。何かを振り払うように小さくかぶりを振ると、カノンは毅然と顔を上げる。

「ですが今、その『望み』すらギアスの力によって永遠に奪われてしまいました。全てを兼ね備えながら何に拘る事もなく、ご自身の望みを示す事もない・・・ならば、以前お仕えしていた殿下と一体何が変わるというのでしょう」
「・・・兄上は、全てに満たされていた」

柔らかな光を背に受けて、少年の影が僅かに傾いだ。

「『望み』とは、自らの手の届かないものを必死に掴もうとする事だ。この男には、その気になりさえすれば何でも自分の思い通りに出来る力と才能があった・・・だからそれは兄上の『望み』にはならなかったのだよ」

昔から腹立たしい存在だった、と言ってルルーシュが小さく笑った。暮れなずむ夕陽に映える紫玉の瞳は、その傍らに座る男だけに注がれている――――そこに宿る密かな敬愛と思慕の念に彼は気が付いているのだろうか。思わず目を伏せたカノンに向けて、ルルーシュが口調を改めて強く言った。

「この男はゼロの重要な『駒』だ。おまえはそれを承知でここへ戻ってきた・・・ギアスではなく、自分の意志で・・・そう、これから私の築く世界に必要なのは貴公のような存在なのだ、マルディーニ伯」
「ルルーシュ様、」
「貴公にギアスが必要ないと言った訳がわかったろう、全て私の計算通りだ。おまえには『ゼロ』のために働いてもらう。自らの意志で、最期まで・・・この男と共に」
「・・・イエス、ユア・ハイネス」

皮肉を込めて放った言葉を、少年は鼻先で軽く笑い飛ばす。書類を整えていたシュナイゼルが、ルルーシュを仰いで言った。

「さあ、これでいい。次は何をしようか、『ゼロ』」
「それでは、今から『ルルーシュ』とチェスの勝負をしていただけませんか・・・兄上。あの時の勝負がついていなかったでしょう」
「ああ、いいよ。本当に久しぶりだね。あの時は確か引き分けに終わったのだったかな」

シュナイゼルの言葉にルルーシュがにっこりと微笑む――――兄に甘える子供のように無邪気な素顔で。

「悪いが、少し二人だけにしてもらえないか。もう、あまり時間がないんだ」

そしてもはやカノンに目を留める事もなく、ルルーシュがチェスボードを抱える兄の手を引く。カノンの知らない幼い日の二人・・・純粋にゲームに興じ、戯れる兄弟の姿がそこにあった。カノンは深く一礼すると、二人に背を向けて執務室を後にした。閉まる扉に背を預け、カノンは強く目を閉じる。
自分はずっと思い上がっていた・・・シュナイゼルの空白を、いつか自分が埋められるのではないかと、そんな淡い期待を抱いて――――
喉の奥からせり上がる嗚咽を堪えながら、カノンは一人、己の無力感を噛みしめる。そして改めて思い知るのだった。王者の闇を埋められるものとは、その底なき孤独を知る者にしか与えられないものなのだ、と。



08-12-29/thorn