わ　　る　　い　　ゆ　　め 夢を見た・・・辛くて、悲しくて、とても寂しい夢だった。 夢の中で、自分は大切な人を失った。 たくさんの人を傷つけ、多くの人から憎まれた。 一番大事な親友を、この手で殺した。 ――――そして、自分は死んだ。 （夢じゃない、現実だ） 小さく身を震わせて、かつて『枢木スザク』と呼ばれていた男は薄く目を開いた。低い天井と蛍光灯が翠色の瞳にぼんやりと映る。ゆっくりと身を起こすと、錆び付いた簡易ベッドが音を立てて軋んだ。 （いつの間にか眠ってしまったのか） 男はベッドの端に腰掛け、窓を見上げた。曇った硝子の向こうから、うっすらと朝の光が差し込んでいる。 アッシュフォード学園の大学寮にある一室・・・ここはかつて『枢木スザク』が暮らしていた場所だった。備え付けのベッドと窓の他には何もなく、殺風景な様子は昔と何一つ変わっていない。 （ロイドさんとセシルさんがここを残しておいてくれたんだろうか） 一瞬だけそんな事を考えて、男はその考えを振り払った。過去の感傷に浸る資格など自分にはない。窓辺に立つと、男は指先でそっと硝子の表面を拭った。地平から顔を出したばかりの太陽が、凍える空を明るく照らし出している。 （新しい一日の始まり、か） 心の中で呟くと、男は目をすがめて眩い陽光を見つめた――――『彼』が残してくれた世界が目覚めようとしている。 悪逆皇帝がこの世から消え去り、ゼロレクイエムが成し遂げられてから十年・・・混乱を極めた世の中もようやく落ち着きを取り戻した。フレイヤで甚大な被害を受けたブリタニアも、今では戦争の痕跡を見つける事が難しいほどに発展を遂げている。その復興に尽力したのが、戦後間もなく建国された『ブリタニア共和国』の新代表、ナナリー・ヴィ・ブリタニアだった。少女は流れる月日と共に美しく聡明な女性へと成長し、今はシュナイゼルの補佐に頼らずとも、立派に代表としての責務をこなしている。 もうゼロの存在は必要ない・・・世界会議で堂々と意見を述べるナナリーを見て、男はそう感じた。混迷する世界の中で『英雄』の存在は適度な緊張感を与えていたが、それももう無用の物だ。漆黒の仮面を置くと、男はひとり静かに彼女の元を去った。この先、ゼロが表舞台に立つ必要はない。男は『彼』の意志を引き継ぎ、これからは影となって世界のために身を捧げる覚悟だった・・・それなのに。 （何故ここに戻って来てしまったんだろう） 気がつけば、男は大学寮の前に佇んでいた。おそるおそる旧式のノブを回してみると、ドアに鍵はかかっていない。少しだけ、ここで休んでいこう・・・自分に言い訳をしてベッドに腰を下ろしたが、そのまま寝入ってしまったようだった。 （夢なんて、久しぶりにみた） 懐かしい風景が、昔の記憶を呼び起こしたのだろう。水滴に濡れた指を見つめながら、男はゆっくりと白い息を吐き出した。思えば自分は随分と浅はかで、愚かだった・・・若かったのだ、あの頃は。一回り大きくなった自分の手が、過ぎた年月を感じさせた。 （力があれば） あまりに鮮明な夢が、とうに捨てたはずの過去を蘇らせる。今までずっと封じていた想いが、じわりと男の心に疼いた。 （あの時、自分にもっと力があれば） （もっと多くの人に、この光を見せてあげることが出来たのかもしれない） 指の間から覗く黄金色の太陽を見つめながら、男は強く唇を噛み締める。 （そう、――――　） 考えた瞬間、左目に違和感を覚えて、男は軽く顔を顰めた。 瞳の奥が燃えるように熱い。ゴミでも入ったのかもしれないが、部屋に鏡はなく、確かめる術もない。片手でじっと瞼を押さえていると、すぐに違和感も収まった。太陽の光を長く見つめていたせいだろうか・・・男は溜息をついて、ぽつりと呟く。 「ひどい夢だったな」 自分の声を耳にするのは久しぶりだった。いつも仮面を通した機械の音声を耳にしていたせいで、まるで他人の声のように耳に新しい。 何かを振り払うように首を振ると、男はコートの襟を正して足早に部屋を出た。これ以上、日本に留まってはいけない。そしてもう二度と、この国を訪れてはならない。このままでは、死んだはずの『枢木スザク』の想いに捕らわれてしまう。自分に言い聞かせるように心の中で唱えつつ――――しかし、男の足はある場所を目指していた。 （一度だけ、そう・・・最後にもう一度だけ、） 流麗な形のアーチを抜けて、男が向かった先はアッシュフォード学園高等部のクラブハウスだった。戦禍を免れ、残った建物は十年前の様子とまるで変わらない。玄関にそっと足を踏み入れれば、石造りの床に乾いた靴音が鳴った。固く閉ざされた扉に触れ、男は祈るように瞳を閉じる。『枢木スザク』の楽しい思い出は全てここに残されていた。 （もう、これで十分だ） 男は顔を上げると、こみ上げる想いを断ち切るように重厚な扉を軽く小突いた。背を向けようとしたその時、鍵の外れる音と共に、内側から扉がゆっくりと開く。 （中に人がいたのか） ノックした理由をどう言い繕うか考えていた男は、隙間から覗いた顔に大きく目を見張った。 「あ！物音がしたと思ったら、やっぱりスザクくんだったんだ・・・おかえり！」 長いストレートの髪を揺らして、笑顔のシャーリーが大きく扉を開け放つ。少女の肩越しに、大きな丸テーブルとカセットコンロが見えた。卓上に皿を並べていたリヴァルが大きく手を振って叫ぶ。 「おうスザク、おっかえりー！」 「もう、遅いじゃないの。待ちくたびれちゃったわ！」 腰のくびれに両手を当てると、ミレイが子供のように口を尖らせる。その影からお玉を手にしたニーナがもじもじしながら顔を覗かせた。 「・・・な・・・どう、して・・・？」 ぎこちなく口を開くと、皆が不思議そうに顔を見合わせる。 「どうして、って・・・ねえ」 「せっかくのニューイヤーズ・パーティだってのに、急に呼び出しが入って、スザクくんが抜けちゃったんじゃない」 「そうそう。んなもんバックレちゃえばいいのに、自分しかいないって、いきなり飛び出して行っちゃうんだもんな」 「仕方ないから、みんなで帰りを待ってたんだよ」 「待ってた・・・僕を？」 唖然とするスザクを、箸を持ったカレンが鋭い目つきで睨み付けた。 「そうよ。ひとりだけ『闇鍋』から逃れようだなんて、そうはいかないんだから！」 「やみなべ？」 「会長の提案で、急遽決まったイベントだ」 低く柔らかなトーンの声が、エントランスホールに響く。高鳴る鼓動を沈めるように、スザクは手で胸の中心を押さえた。まだ信じない――――信じられない。 ダイニングから現れた細身の影は、手にした大鍋をコンロに据えると、スザクの前にゆっくりと進み出た。 「おかえり、スザク」 「・・・・・・ル、ルーシュ」 立ちすくむスザクに向かって、鮮やかにルルーシュが微笑む。 「ずっと待ってたんだよ、おまえを」 透き通るような紫紺の瞳を細めて、ルルーシュがスザクの手を取った。凍えて強張った手を、温かなぬくもりが包み込む。 「ひとりで頑張ったな、スザク。お疲れさま」 周りを見回せば、生徒会のメンバー全員が笑顔でこちらを見つめている。指先から伝わる熱を感じて、スザクはルルーシュの白い手を握り返した。 （夢、じゃ、ない） 鼻の奥がツンと痺れて、スザクの瞳にみるみる涙が溢れる。ぽろぽろと頬を伝い落ちる涙が、ルルーシュの制服を濡らした。 「なっ、おいスザクどうした！何かあったのか！？」 「・・・なんでも・・・何でもないんだけど・・・」 「何でもないわけないだろう、いきなり泣き出すなんて！」 「・・・きっと、悪い夢を見たんだ」 手の甲で目の端を擦ると、スザクは顔を上げた。慌てる親友に向かって、どうにか口元に笑みを浮かべる。 「すごく怖い夢だった・・・でも、ルルーシュの顔見たらホッとして・・・なんだか涙が出て来ちゃって」 「怖い夢？一体いくつだ、おまえは」 理由に拍子抜けしたルルーシュが、指先でスザクの額を弾く。横から顔を覗き込んだミレイが、くせ毛の髪を優しく撫でた。 「まあまあ、涙が出ちゃう時だってあるわよねぇ。だって男の子ですもん」 「いいから、そんなところに突っ立ってないで早く中に入りなさいよ」 「おーし、さっそく鍋パーティ始めようぜ」 カレンがスザクの背を押して玄関の扉を勢いよく閉める。リヴァルの宣言と同時に、奥から咲世子と車椅子のナナリーが姿を現した。ナナリーの膝に乗せられた皿には、今時珍しい茶色の亀の子タワシが積まれている。 「お待たせしました、ミレイ様。ご所望の物をお持ちしたのですが」 「ミレイさん、こんなにたくさんのタワシって何に使うんですか？大掃除は終わったはずですけれど・・・」 「ありがと、ナナリー！ふっふーん、これはねえ、これから面白い事に使うのよ！」 「ちょっと会長・・・ま、まさかそれ・・・」 「闇鍋はね、ちょっぴり危険な大人の遊びなんだけど、ナナリーには特別に参加させてあげるわね」 「まあ、ありがとうございます！楽しみですね、咲世子さん」 「そうですね、ナナリー様」 小悪魔のような笑みでウインクするミレイに、シャーリーの頬が引きつる。ナナリーが嬉しそうに胸の前で手を合わせ、咲世子が控えめに頷いた。丸テーブルではニーナが大鍋に具材を入れ始める。それに目を留めたリヴァルが、ぎょっとして叫んだ。 「うっわ、ニーナ！一体何入れてるんだよ！？」 「え・・・何って、チョコボール」 眼鏡の曇りを気にしながら、ニーナが残りのチョコボールを一気に鍋へ投入した。 「お鍋の隠し味にチョコボールを入れるといいんだって、ロイド先生の研究室の方から教えて頂いたんだけど。」 「へー、鍋ってそういうもんなの？」 「あとブルーベリーも入れるみたい」 「そんなわけないでしょ！全くもう・・・これだから・・・」 『闇鍋』の意味がよく分かっていない二人を後目に、カレンがだし汁に溶け出すチョコレートを掬い上げる。隣ではタワシの載った皿を巡って、シャーリーとミレイの攻防戦が繰り広げられていた。 「会長、それは絶対鍋に入れちゃダメですよ！」 「いいじゃないの、闇鍋なんだから何入れたって。それにこういうものが入ってないと面白くないでしょ！」 「やっぱり入れる気ですね！？食べられない物は入れないで下さい！」 「いいからいいから・・・咲世子さーん、電気消しちゃってー」 「やれやれ全く・・・」 巻き起こる大騒ぎに、ルルーシュが細い指先で額を抑える。吹き出したスザクを睨みつけて、ルルーシュはポケットから取り出したハンカチでスザクの頬を擦った。 「ほら、涙の跡がついてる」 「あ、ごめん。ありがとう、ルルーシュ」 「馬鹿だな、おまえは。何だか知らないけど、人前で泣くなんてみっともないぞ」 「うん・・・でも、すごく怖かったんだ」 ――――君がいなくなる世界を夢みるなんて。小さく鼻をすすって、スザクは口の中で呟いた。乱暴な言葉とは裏腹に、ルルーシュの手つきはひどく優しい。離れようとする手を捕まえて、スザクはその手を再び自らの頬に押し当てた。じわりと広がる温もりを確かめて、今度は声に出して言葉にする。 「本当に夢で良かった・・・もう二度と悪い夢はみませんように」 スザクの真摯な声に、ルルーシュが不可解という顔で瞬きした。首を回して後ろを振り返ると、鍋の様子を見遣って嘆息する。 「・・・まあ、本当の悪夢はこれから始まるのかもしれないけどな」 同時にエントランスの電気が掻き消え、歓声の中でパーティーが始まった。 （そう、もう一度あの頃に戻って） （『彼』と共に全てをやり直す事ができたなら） ギアスとは、人の願い―――― その瞳の奥で紅い鳥が翼を広げた事を、男は知らない。 10-01-11／thorn