茜 さ す 路




秋の山里は日が落ちるのが早い。夕日を背に受けながら、スザクは山中にある神社へと続く道を急いだ。道場での稽古を終え、黙々と歩むスザクの耳に楽しそうな声が聞こえてくる。道沿いにある小さな公園で、近所の少年達が他愛のない鬼ごっこをして遊んでいるようだった。くだらない、とスザクは小さく呟く。俺は枢木家の跡継ぎなんだから、つまらない奴らと遊んでいる暇はない――――

公園の前を通りがかると、大声で笑いながら走り回っていた少年達の声がぴたりとやんだ。足早に通り過ぎようとしていたスザクが立ち止まる。少年達の方に目を走らせると、何か忌まわしい物と出会ったかのように、皆揃って目を伏せた。口を真一文字に結ぶと、スザクは体の向きを変えて公園内に足を踏み入れる。そして肩にかけたランドセルを地面に放り投げ、唯一の遊具である古びたブランコに飛び乗った。少年達は隅に寄り固まって、闖入者を盗み見ては何事か囁き合っている。煩わしい目線を無視して、スザクは勢いよくブランコを漕ぎ始めた。空がぐんと近くなり、また遠ざかる。
「ゆうやけ こやけで ひがくれて やまのおてらの かねがなる」 風を切るスザクの耳に聞き覚えのある旋律が響いた。二人の少女が学校で習った唱歌を口ずさみながら、公園を横切っていく。 「おててつないで (あいつ) みなかえろう (枢木の)」 茜空に響く歌の合間に、少年達が好奇と悪意をもってスザクの名を口にするのが聞こえた。 「からすといっしょに (スザクだ) かえりましょ (絶対) (近寄るな)」 スザクは空の一点を見詰めながら、ブランコをさらに強く漕いだ。高く、空に手が届くかと思えば、また引き戻される。古い遊具がぎいぎいと音を立てた。
「たかし、ごはんよ」 ふいに公園の入り口から呼び声が響いた。エプロン姿の女性が、少年達の方に向かって大きく手招きしている。 「かあさん」 一人が仲間をかき分けて身を乗り出した。 「さあ、もうおうちへ帰りましょう」 少年は母親の元へ駆け出しながら、仲間に手を振る。 「じゃあまたな」 「バイバーイ、たかちゃん」 「また明日」 母子は楽しそうに何か話をしながら近くの民家へと消えていった。他の少年達もじゃれあいながら、それぞれの家路につく。笑い声が遠ざかり、小さな公園にはスザクの他に誰もいなくなった。宵闇が迫る空に、遊具の軋む音だけが響く。スザクは漕ぐのを止め、揺れるブランコに身を任せた。

かあさん――――スザクは胸の中で、さきほどの少年が嬉しそうに口にした言葉を繰り返す。母親、とは一体どんな存在なのだろう。スザクの記憶に母の思い出はない。死んだのか、生きているのか、それすらも知らされず、その存在を口にする事すら許されなかった。物心がついたばかりの頃、スザクは一度だけ父に問い掛けた事がある。 『くだらない、何か不満でもあるというのか』 返ってきたのは、父親の凍てつくような眼差しと冷たい言葉だけであった。 『おまえはこの枢木家の跡継ぎなのだ、つまらない事を気にしている暇はない』 ・・・確かに身の回りの事はすべて世話係の家政婦が面倒を見てくれていたし、不自由を感じることは何一つなかった。つまらない事を気にしている暇はない、とスザクは父の言葉を繰り返し唱える。そして母親の存在はスザクの中で黒く塗りつぶされた。

『スザクさんが生まれたときは、それは大変な難産でねえ、』 あれはいつの事だったろう。お菓子を掠めるために忍び込んだ台所で、古くから枢木家に勤める老婆と、スザクの世話係である中年の家政婦が立ち話に興じていた。扉の影に身を隠し、スザクは息を殺して話に耳を澄ます。母の話を聞くのはこれが初めてだった。どういうわけか、使用人たちも皆、スザクの母親について貝のように口を閉ざしていたからだ。 『やっと生まれた時には子供の息がなくてねえ・・・出産したばかりの母親に死んだ子なんか見せたらおかしくなっちまう。だから、取り上げた私らは奥様に隠れて子供を処分しようとしたのさ』 裸足のつま先を見詰めて、スザクは俯く。 死んだ子、という言葉に胸が苦しくなった。 『そうしたら奥様が必死に子供を取り返してねえ・・・胸に抱いて、そりゃあ一生懸命お祈りなすったんよ』 (吉事を運ぶ赤い鳥、契りをもって、どうか、どうか、この子の御霊を還したまえ) 『そうしたら空からこう、さーっと光が差して、土気色だった子供が火がついたみたいに泣き出してねえ』 『いやだわあ、それ本当なのタエさん』 『ああ本当さ、この目で見たよ。あれは母親の力というのかねえ・・・奥様は元々、大巫女様でいらした方だしねえ』 でもその代わりに、と老婆が言葉を繋ぐ。スザクが扉から少し身を乗り出した時、低い声が頭上から響いた。 『こんな所で何をしている、スザク』 振り向けば、ひどく厳しい顔の父が背後に立っていた。 『まさか使用人のくだらない与太話を立ち聞きしているわけではないだろうな』 その時なんと言ってその場を抜け出したのか、スザクは全く覚えていない。翌日、なじみの家政婦が変わり、新しい家政婦から老婆が高齢の為にいとまを申し出た事を知らされた。

母親、とは一体どんな存在なのだろう。止まったブランコに乗ったまま、スザクは足元に映る自分の影を見詰めた。もうじき日が落ちて、辺りは闇に包まれる。ここでずっとこうしていたら、家の使いが迎えに来ることだろう――――”スザク”ではなく、”枢木の坊ちゃん”を。
”枢木家の跡継ぎ”として父の期待に応える・・・そんな自分の役割に、スザクは何の疑問も不満も感じてはいない。むしろ誇らしい事だと思っている。だがしかし、もし母がいたなら・・・迎えに来てくれるのだろうか、”枢木スザク”ではない、ただの”スザク”を。
くだらない、と呟く声が夕日に溶けた。真っ赤に染まった景色の中で、ブランコに乗ったスザクの影だけがぼんやりと宙に浮いている。

「・・・スザク?」 突然響いた声にスザクは小さく身を震わせた。止まったブランコの下に細長い影が伸びる。 「何してるんだ、一体」 振り向いた先に、黒髪の小柄な少年が佇んでいた。手にはビニールの買い物袋を提げている。 「早くしないと、真っ暗になって帰れなくなるぞ」 無言のまま固まっているスザクに、少年は首を傾げると、ほら、と言って片手を差し出した。 「一緒に帰ろう、スザク」 「・・・ルルーシュ」 我に返ったようにその名を呼ぶと、スザクはブランコを飛び降りた。差し出された白い手の平に、日に焼けた手を重ねる。固く握り返された手に、ルルーシュが小さく笑った。二人は手を繋いだまま、並んで神社へと向かう道をたどる。 「学校、どうだった」 長い石段を一歩ずつ登りながら、ルルーシュが尋ねた。「別に面白くない、学校なんて。道場の方がずっと楽しいよ」 「・・・そうか」 スザクのぶっきらぼうな答えにルルーシュが頷く。 「でも、学校か・・・いいな・・・」 苦笑混じりに漏れる寂しげな言葉にスザクは俯いた。故国から捨てられたこの皇子は学校にも行けず、小さな土蔵を住処として体の不自由な妹と共に暮らしているのだ・・・たった二人きりで。繋いだ手から伝わる温もりを感じながら、スザクは自分の発言を恥じた。自然と下りた互いの沈黙に耐えられず、公園で聞いた唱歌が口をついて出る。 「夕焼け 小焼けで 日が暮れて」 日本の歌か、とルルーシュが呟いた。 「その歌、むかし母さんがうたってくれた歌に似てる」 山に落ちる最後の光がルルーシュの淡い微笑みを照らす。巣へ戻る鳥たちの鳴き声を聞きながら、スザクはそっと目を伏せ、薄闇に暮れる家路を急いだ。



07-11-11/thorn